「虜」
捕らわれているのはお前なのか…
…それとも…。
「アドニス!アドニス!」
私がその声に気付いたのは、中庭の薔薇の剪定をしている時だった。
剪定の手を止めて、声のした方を見ると少女が一人、中庭のしげみを突っ切って、こちらへ駆けてくるのが見えた。
「どうなさいました?お嬢様。」
しげみに服のすそをとられるのも気にとめず、少女は肩までの金髪を揺らしまっすぐにこちらに向かって来る。肩の辺りで揺れる金髪は、ときおり陽にすけて金とも銀ともつかない色に輝いている。
「お父様は?まだお帰りにならないの?」
せわしい呼吸も整えず、一息に喋った少女の言葉に、はてさてどうしたものか、と私は口元に苦笑いを浮かべた。
少女の名はアネモネ。私の主人、アラクーン卿の大事な一人娘である。
母親譲りだという見事な金髪、父親譲りの青い目は否が応でも人目を引く。けれども何より見ていて面白いのは、やはり一秒ごとにくるくると変わる少女の表情だろう。
おおよそ人間の持ち得るだけの感情を、少女は隠しもせずその顔に浮かべるので、見ていて飽きることがない。
今、アネモネは片方の眉をやや吊り上げ、苦笑したまま黙ってしまった私の方を怒ったように見上げていた。
「ねぇ、だからお父様は?」
少女の質問はこれで朝から何回目になるのだろうか。
もはや、少女をなだめすかすことにも疲れていた私はしぶしぶと胸ポケットから懐中時計を取り出した。
「今、ちょうど二時半です。三時にお帰りになるとのことですから、もう少しでお帰りになるでしょう。」
そういうと少女は途端にパっと顔を輝かせた。少女から見えぬよう、覗いた懐中時計の針は二時を少し過ぎたところを指している。
「三時?三時にお帰りになるとお父様がそう言ったの?」
「はい、確かに。」
先程まで、怒ったように私を見上げていた青い瞳は、今はもう春の太陽を浴びてきらきらと輝いている。
「あとどれくらいでお帰りになるの?」
「半時、ほどで」
「半時ほどって、どのくらい?」
疑いもせず頬を上気させ、しきりに尋ねる少女の手を取ると、
「そうですね、あちらのテラスで紅茶を飲んで…そうだクッキーも用意致しましょう。そうしていればあっという間のことですよ。」
そう言って、テラスの方へと私達は歩いた。
「あら、嫌だ。アドニスの手、かき傷だらけじゃない。」
カップにアールグレイをつぐ私の手を見咎めて、少女が言った。
「ああ、これは――先程まで薔薇をいじっていたものですから―」
ティーポットを置いて手を見ると、薔薇の棘でついたらしい無数の細かい傷跡が出来ていた。物置に手袋を取りに行くのを不精したのがいけなかったようだ。
私の手を取ると、少女は丹念に傷跡を眺めていたが、その手を離すとため息をついた。
「全く、お父様もちゃんと庭師を雇えばいいのにね。」
少女の言葉に曖昧に微笑みながら、私はぼんやりと主人のことを考えていた。
私の雇い主であるアラクーン卿は人間嫌いなことで有名で、ごく限られた内輪の人間としか交流がなかった。
人間嫌いと一口に言っても、決して愛想が悪いわけではない。客人にはそれ相応のもてなしもするし、招かれればパーティーにも顔を出す。
ただ、自分の生活圏に見知らぬ人間を立ち入らせることを極端に嫌う人だった。
一年ほど前から私を雇い出したのも、アネモネの母―フローラという見事な金髪の女性だったらしい――の失踪という、いうにいわれぬ事情があってのことだった。
初めて訪れた屋敷の、埃っぽい書斎の中で会ったアラクーン卿はなんとなく不機嫌そうな顔をした人物だった。
「アドニス・フランベル君だね。よろしく。」
部屋に入ると、卿はまずそう言って握手を求めてきた。
握手に応じながら、私はアラクーン卿を見た。小奇麗にまとめた黒髪の下からは冷たいブルーアイズがのぞく。
美人だったという母上に似て、若い頃はハンサムだったに違いない。眉間や頬の辺りに彼の経た年月を示す皺が刻まれていたが、それでも彼の整った顔立ちは青年の時の面影を知るには十分だった。
けれども、さて一体卿はいくつになるのか、と改めて眺めてみるとさっぱり分からない。
午後の日差しのみが照らす、薄暗い書斎が与えた不思議な効果だったのかもしれない。しかし、私が見たその時の卿は、二十歳の青年のようにも、五十を過ぎた分別ある紳士のようにも見えたのだ。
アラクーン卿と話すうち、最初の違和感はますます強くなった。
卿は私の持ってきた紹介状に目を通すと、二、三の質問を私にした。それはいずれも他愛ないもの――どこに住んでいるのか、ここまで来るのにはおよそどれくらいかかるのか、など――だったが、それらを尋ねる口調や仕草、一つ一つが私にざらざらとした違和感を与えるのだった。
彼の口調は穏やかだったが、威圧的な印象を与えた。
彼のふるまいは自信に満ち溢れていたが、自嘲的に見えた。
そういうちぐはぐな要素がギリギリのところで調和した人物、それがアラクーン卿だった。
「では君は――今は一人暮しなのかね?」
「はい。」
質問を交わすうちに、いつのまにか私の暮らしぶりに関する質問になった。話題は自然にそちらに移っていったが、彼の慎重な様子を見て、恐らく初めからこれが訊きたかったのだろう、と私は思った。
「ご両親は?」
「母がおりましたが――何しろもう高齢で。姉が嫁ぐ時に、一緒にそちらに住まいを移しました。」
「姉上がおられる。」
卿はそう言うと何故か不快そうに、眉をひそめた。
「他にご兄弟は?」
卿の不興を買う理由が分からなかったので、私は内心慌てた。しかし、その場しのぎで繕うようなことを言ったとしても、後々もっと困ることになるだろう、と悟った私は包み隠さず事実を述べることにした。
「姉が二人おりました。けれども二人とも今は嫁ぎまして、郊外に住んでいます。」
「ふむ。」
そう頷くとアラクーン卿はしばらく考え込むようにして黙り込んでしまった。どうやら、今回の仕事も諦めた方が良さそうだと、私が思い始めた時にようやく卿は口を開いた。
「君には失礼だが―――身の回りに女性がいないのは条件として好ましい。」
「はぁ。」
卿の言わんとすることが分かりかねて、私はむぐむぐと口の中で返事をした。
「私は家のことを人に詮索されるのが嫌いでね。それで今回、君を紹介してもらうのも相当戸惑ったのだが――特に女性というものは他人の事情に首を突っ込みたがるだろう。」
同意を求める卿の強い視線に私は思わず頷いた。卿はその様子に大変満足そうに微笑んだが、私は釈然としない思いだった。
紹介された知り合いから、卿が人嫌いだということは聞いていたが、これは少し行き過ぎではないだろうか?使用人本人のみならず――その周囲の人間まで気にする卿の神経質は人嫌いとは少し違う類のような気がした。
「つまらないわ。」
アネモネの声で私は我に返った。
見るとアネモネは手持ち無沙汰にティースプーンで紅茶をくるくるとかき回している。
「最近は伯父様もお見えにならないし、お父様と来たら、外出ばかり――。」
「それは――」
母上を探していらっしゃるからでしょう、と言いかけて私は口を噤んだ。
アラクーン卿はアネモネには、母フローラの失踪をはっきりと告げていなかった。
フローラと同じ時期に行方不明になったという卿の弟の、ゼフィルスについても同様である。
弟は卿に似ない気さくな人物で、珍しい銀色の髪をした美丈夫だったという噂だ。
まるで示し合わせたように、同じ頃失踪した二人について、人々の間で囁かれる下世話な噂話を娘の耳に入れたくない、というのが
卿の語った理由だ。しかし、私は何故かそれに不穏な胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。
「お父様もお忙しいのでしょう。」
「そうかしら。」
拗ねたように呟いたアネモネを私は黙って見つめた。
母と伯父は失踪中、父は外出が多く、そのためアネモネはほとんどの時間をこうしてこの館で私と二人きりで過ごしている。
その寂しさからなのだろう。父親と共にいる時のアネモネの、全身で甘えかかるような様子は私の目から見ても微笑ましいものだった。
しかし、父を見上げるアネモネに、時折甘えるような表情や媚びるような仕草が見え隠れする時、私は愕然とすることがあった。それは父親の注意を引きたいがための子供らしい無邪気なものなどではなかった。
幼く拙い中にもどこか強い女の香りを匂わすような――そう、ある種の狡猾さすら、そこにはかい間見えることがあったのだ。
私を不安にさせるのは、それだけではない。何よりも私を不安にさせるのは、アネモネを見つめるアラクーン卿の瞳だった。あれは娘を見る瞳などではない。あれは――
「いいわ。アドニス、行きましょう。」
「お嬢さま?」
ふいに椅子から立ち上がると、アネモネはぼんやりしていた私の手を取った。
「クッキーも紅茶もとても美味しいけど、もうお腹いっぱい。だから、アドニスも一緒に行きましょう?」
「お嬢さま?どこに――」
躊躇う私の手をひっぱって、むりやり椅子から立ち上がらせるとアネモネはくすくすと笑う。
「お父様の秘密のお部屋よ。」
その一言を聞いて、私はさあっと顔から血の気が引くのを感じた。
「いけません、私が叱られます。」
しかしアネモネはそんなことには頓着せず、ただくすくすと笑うのみ。
「大丈夫。私がかばってあげるから。」
軽やかに笑う少女の手を払うこともできず、私はなかばアネモネに引きずられるようにして、屋敷の方へと歩き出した。
屋敷の中は日中にも関わらず、薄暗くどこか寒々としている。
窓から入った日光が廊下のところどころに陽だまりを作っていたが、しかしそれが屋敷の陰影を一段と濃いものにしていた。
この屋敷に勤め始めてからもう一年になる。しかし、私はここに踏み入れる度に神経がざわざわと粟立つのを感じずにはいられなかった。
ここは卿がそれまで住んでいた父の邸宅を弟に譲り、フローラとの結婚のために自ら設計した屋敷だという。
この屋敷を歩く時、私はまるで設計者その人に対峙した時のように言うに言われぬ違和感を抱く。
例えばそれは階段の手摺り、壁の合わせ目、家具の配置など一つ一つ取ってみればとるに足らないようなものなのだが、全てを合わせて全体的に眺めてみる時、それらの暗号が一つの不気味な解答を暗示しているようで、私は寒々としたものを覚えるのだった。
「アドニス、早く!」
けれどそれも少女にとっては幼い頃から住みなれた我が家。
足取りの重い私を気にすることもなく、アネモネはまるで跳ねるように廊下を駆けていく。
その様子にため息をもらしながら、私は重い足を引きずってアネモネの後へと続いた。
アネモネの目指す部屋は細長く続く廊下の突き当たりになる。ふと、私は違和感を感じて、足を止めた。そこはアラクーン卿の自室の前だった。
私は屋敷の中を何度か行き来するうちに、廊下のその部分だけが他と違って足音が空虚に響くことを知っていた。確かめるようにつま先で二、三度たたらを踏む。
「アドニス?何してるの?」
「なんでもありません。」
足音に振りかえったアネモネにそう答えると、慌てて私は彼女の元に駆け寄った。
その部屋は昼間からカーテンが閉ざされ、主人以外の出入りは滅多にない。
アネモネは部屋に入ると手慣れた様子で、重いベルベットのカーテンを紐でくくり、薄手のカーテンのみを下ろした状態にした。
…この様子からすると、私が知らない間にも、一人で部屋に出入りしているに違いない。
今更、アネモネをたしなめる気持ちにもなれず、私は胸中でため息を吐くとそっとドアに身体をもたせかけた。
「どうしたの?アドニスも入ってらっしゃいよ。」
入り口に立ち尽くしたまま、部屋に踏み入ろうとしない私にアネモネが首を傾げた。
返事に戸惑っていると、少女はくすくすと忍び笑いを漏らした。
「アドニスったら、そんなにお父様が恐いの?大丈夫だからいらっしゃい。」
まるで小さい子供をなだめるような口調でそう言われ、私はしぶしぶと部屋に足を踏み入れた。
…部屋に入るのを躊躇ったのは、何も主人に咎められるのが恐いからではなかった。部屋の壁一面にかけられている、無数の蝶々達が私はなんとなく苦手だったのだ。
「お嬢様は…蝶々がお好きなんですか?」
父親のコレクションを満足気に眺め、口元に笑みすら浮かべているアネモネを私は横目で見て言った。
「好きよ。でも私は生きている方が好き。死んでいるのはつまらない。動かないもの。」
少女の答えになんとなくほっとして私は息をついた。
硝子箱の中、色彩も鮮やかに浮かび上がる蝶々達はまるで宝石のようで。
瑠璃に紅玉、孔雀石。琥珀の羽を白金の糸でしつけたようなその姿は確かに美しい。けれどそこに漂う濃厚な死の香りだけはどうしても好きになれなかった。
アネモネはしばらくぼんやりと蝶々を眺めていたが、部屋の隅にある棚に近付くとおもむろに中から何かを取り出した。
主人の不在時に無断で部屋に侵入したという罪悪感に、ただでさえひやひやしていた私はぎょっとして一瞬言葉も出なかった。
「お嬢様、何を――」
アネモネの手にしているものを見て私は更に言葉を失った。
なんとそれは硝子瓶の中に入った一匹の蝶々だったのだ。
「素敵でしょう?」
私の驚いた顔を見てアネモネはにっこりと微笑んだ
。
「お父様が東方の国におでかけになった時、買ってきたものなんですって。」
よくよく目を凝らして見れば、蝶々は瓶の中でも生き絶えることもなく、頼りなげにその七色の羽を動かしている。
「一体どうやって…」
こんな花もなく水もない密閉された空間でこの蝶々は生きているのか。
「…私も詳しくは知らない。多分、卵か幼虫の時からこの中で育てているんじゃないかしら。」
私の疑問にアネモネがまるで独り言のようにそう呟いた。
薄闇の中、盗み見るように覗いたアネモネの横顔はうっとりと硝子瓶の中の蝶々を見つめていた。
いつだったろうか。
中庭で遊ぶアネモネを見つめ、卿がぽつりと呟いたことがあった。
「あれに似てきたな。」
卿のいうあれ、というのが妻のフローラを指しているのだと気付くのに私は少々時間がかかった。卿は普段、失踪した夫人のことを口に出すことは滅多になく、その場合も娘のアネモネに対して語ることが多かったからだ。
「そう思わないか?」
「はあ。」
一年前に失踪したというフローラ夫人のことは、写真でしか知らない。アネモネのような美しい金髪と、見事なエメラルドの瞳をした女性だった。
アネモネは卿にあまり似ていない。唯一父譲りと言われているのは、その冷たいブルーアイズだけだ。しかし私にはアネモネがフローラ夫人に似ているとも何故か思えなかった。
確かに金に輝く髪は母のそれに似ていたし、顔立ちも母の方に似ているのかもしれない。
…けれどもアネモネの横顔に時折よぎる暗い影や、甘えるように卿を見上げる青い瞳に写真の中で無邪気に微笑むフローラ夫人の面影を見ることはできなかった。
「あれに似てきた。」
卿は一瞬、猫のように目を細めると満足そうにそう呟いた。
あの時、確かめるように呟いた卿の顔が忘れられない。
あれは決して娘の成長を見守る父親のまなざしなどではない。
口元を僅かに歪め、何かを計ろうとするかのように細めた冷たい瞳。
そこにあったのはただ賛嘆だった。
ある美しい絵画を眺める時の、あるいは硝子越しの蝶々達を見つめる横顔の、恐ろしい程までに澄んだそれは賛嘆の眼差し。
今、蝶々を見つめるアネモネの瞳はあの時のアラクーン卿と同じ輝きをしていた。
「死んでいるのはつまらない。動かないもの。」
そう呟いた少女の横顔を黙って見つめる。硝子瓶の中の蝶々は微かな燐光を上げひらひらと力なく舞っている。
少女は気付いているのだろうか。
父親のあの冷たい瞳に。
硝子瓶の中、捕らわれの蝶々を見つめる自分とあの青い瞳に―――
捕らわれているのはお前なのか
それとも……。
え〜この話は当初、音澄の管理する「ムーディー100題」のお題小説の一つとして書かれました。以前、一緒にサイト運営をしていた真神しゃおさんがイラストを描き、それを音澄が見てイメージを膨らませ小説を書くという方法で創っていました。
しかし、そのうち設定がどんどん膨らんでいき、「『ムーディー100題』とは別枠で話が書きたいな」と思い立ち、こうして長編小説(予定)の一部として載せることにしました。
目指すものとしては、一つ一つの話が最終的に一つの糸で繋がる…というような物を考えております。
ちなみに舞台は19世紀末イギリスをイメージしておりますが、時代考証などは行っておりませんので、矛盾を見つけても「フフン♪」と
鼻で笑って下さい…(´□`;)
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