「標本蝶々」


 ロナルドの長所は何といっても、「嘘のつけない」ところだろう。「正直」なのとは少し違う。人間誰しも、嘘の一つや二つはつくものだが、彼の場合それはいつも徒労に終わる。
 もっとも長所というのは、短所と常に紙一重なものである。いつだって。


 夕暮れせまる部屋で彼は先程から落ち着きなく、手元の葉巻をいじり回している。テーブルの上には、二つのティーカップ。花瓶の白百合は妻のルイーズが活けたものだろう。テーブルの上にはそれ以外に何もない。
 黙りこくってしまったロナルドに僕はため息をついた。
 「まぁ、君が言いたくないならいいけどね。」
 僕は呆れたように言った。
 「でも理由も聞かないで、居心地のいいソファーから追い出されるのは不愉快だな。紅茶もまだ途中だし。」
 つい五分程前まで、僕らは至極仲良くお茶を飲んでいた。ロナルドがチラチラとやたら時計の方を見るのは気になったが、それ以外は変わったこともなく、いつものように世間話をしていた。ロナルドが「来客があるんだ」と言った時も何の問題もなかった。医者という職業柄、彼に相談を持ちかけてくる客は多い。客の相談ごとはいつも他愛のないもので(適度な飲酒とは何リットルまでかとか、年老いた雌鳥がまた卵を産むようになる方法はないのかとか)、何の約束もなく訪ねてくる客もあった。そんな時、僕はソファの端っこで適当に人当たりな良さそうな笑顔を浮かべ、ふんふんと彼と一緒に客の話を聞いていた。彼らの話はブリキの箱に詰まった大量のがらくたのようで、一見下らなく思えるのだが、一つ一つ手にとって見てみると中々面白いものが多かった。
 だからその時も僕は全くそのつもりで、「ああ、」とだけ頷いた。気にせず、世間話を続けようとする僕にロナルドは気まずそうに言った。
 「それが、その、君には席をはずしてもらいたいのだが。」
 僕は目をしばたいた。
 「僕がいると不都合なのかい?」
 そして、それきりロナルドは黙ってしまったのだ。
 僕はロナルドから葉巻を取り上げると、手のひらの中でくるくると回した。
 「名前くらい教えてくれても良さそうだな。その葉巻嫌いの客人の名前を。」
 「誰が煙草嫌いだって?」
 「だから、君の客人だよ。僕も君も大分吸う方だけど、今日の君は葉巻一本勧めてくれやしない。テーブルには灰皿もなし。しかし、君はさっきから葉巻を手の平でいじくり回してる。どうやら、禁煙てわけでもなさそうだ。だとしたら、今日君が吸わないのは自分のためでもなく、僕のためでもなく、『彼』のためってことじゃないか?」
 「『彼』?」
 ロナルドは驚いて僕の顔を見た。
 「そう『彼』だ。良識のある人間なら、妻の留守中、それもこんな時間にご婦人と二人きりで会うなんてことはしないだろうからね。まぁ、」
 そう言って、僕はテーブルの上の白百合を手にとって匂いを嗅いだ。
 「『本気の浮気』ということも考えられなくはないが、いくらなんでも密会現場の花をルイーズに用意させるほど、君はデリカシーのない人間じゃないだろう?」
 手に取った白百合で僕はロナルドの方を指した。勿体ぶった僕の仕草に、彼はいぶかしげな顔をしている。
 「オスカー、君…最近また何か書いてるのかい?」
 「雑誌に探偵小説を少々」
 そう言って僕は机の上に小汚い雑誌を放り投げた。表紙には僕の名前をアナグラムで組み替えたものが、小さい字で載っている。
 雑誌と僕の顔を見比べてため息をつくロナルドに僕は肩をすくめた。
 「三文小説さ、小遣い稼ぎにもなりゃしない。」
 「しかし、オスカー。」
 と彼は暗い表情で僕の顔を見た。こういう時には彼も医者の顔になる。
 「君、身体の方は大丈夫なのかね?」
 やれやれ、またその話か。僕は舌打ちしたい気分だった。
 「さあね。主治医である君の診断によれば、僕はもう完治したんだろ?」
 他人ごとのようにいう僕よりも、ロナルドの方が痛々しい顔をしている。実際、『あのこと』については、ロナルドは僕以上に苦労をし、僕はといえば何度思い出そうとしても、当時の自分を他人のようにしか感じることができないのだ。
 「完治する、しない、という問題ではないんだよ。」
 「『突き詰めていえば、それは君の心の問題なんだ』だろ?それはもう何度も聞いたよ、大丈夫、最近は食欲も大分あるんだ。」
 心配そうに僕を見るロナルドに僕はぱたぱたと手を振った。彼の気持ちはありがたかったが、医者というのはどうも心配性でいけない。
 「それにしても分からないな。」
 「何が」
 「君が僕を客に会わせたがらない理由。…女性なら何人か思い当たるんだが。僕もその…なんだ、ほら。君もご存知のように、色々あったから。しかし、男となるとまるで心当たりがない。大して友人もいない代わりに、敵もそんなにいないと思うんだが……なんだい、ロナルドその哀れむような眼差しは。」
 「いや、別に。」
 とロナルドは僕から目をそらした。全く、これだから「嘘のつけない」ヤツってのは。
 しかし、そこで気が抜けたのだろうか。ロナルドは思わぬところでぼろを出した。
 「まぁ、お互い面識はないと思うがね。」
 「と、いうことはだ。」
 にたりと笑った僕を見て、彼もまずいと思っただろうがもう遅い。
 「『彼』は随分、名の売れた人物なわけだね?役者とか、作家とか、画家とか…、あるいは身分が高い人間…貴族とか?」
 ロナルドはもう否定も肯定もせずに、ただ青い顔で僕を見つめている。
 役者に作家に、画家に貴族か。これはなかなか面白い。
 ロナルドは気付いていないようだが、実のところ「煙草嫌い」ということ以外、『彼』に関した具体的な情報は何一つ得られていない。証拠となりそうなものもゼロ。この状況から具体的な人物の名前を挙げるのはかなり難しい。
 僕は黙って、ただ手の平の中で、ロナルドから取り上げた葉巻を弄んでいた。黙りこんでしまった僕を見て、安堵の表情を浮かべるロナルドが小憎らしい。
 しかし、どうも腑に落ちないことがある。僕と『彼』とは面識がない。にも関わらず、ロナルドは『彼』と僕を会わせたくないらしい。面識がない以上、『彼』が僕自身に敵意を抱いているとは考え辛い。
 だとしたら、僕が何かしら『彼』に損害を与える可能性があるのか?
 役者・作家・画家・貴族。
 これらの人間に損害を与えるものがあるとしたら、それは…。
 「ゴシップ……。」
 ぽつりと呟いた言葉にロナルドが驚いて僕を見た。
 なるほどね。それなら、ロナルドが僕を客に会わせたくない理由も分かるってものだ。
 「君、僕をゴシップ誌の記者か何かと勘違いしてないかい?」
 苛立たしげに机の端を指で叩く僕を、ロナルドは不思議そうな顔で見つめている。
 「一体、何のことだい?」
 「別にとぼけなくたっていい。…さっき、『彼』を名の売れた人物と言ったが、それはいい意味でじゃないんだろ?たとえば、ゴシップだとか。」
 ロナルドの視線が宙に泳いでいる。やれやれ。ここまで分かり易いと、逆にこちらが不安になってくる。
 「『彼』と僕が面識がない以上、『彼』が僕に敵意ないし悪感情を抱いているとは考えにくい。じゃあ、何故僕を『彼』に会わせたくないのか。考えられるのは、僕が何かしら『彼』に損害を与えるのではないかと君が心配しているという場合。…名声のある人間にとって、致命的な損害になるものはゴシップさ。まぁ、役者や作家なんかだと、場合によっては名を売るいい機会にもなるかもしれないがね。だから可能性として高いのは貴族、かな?あたり?」
 ロナルドの青い顔を見れば、答えは聞かなくても分かった。僕は先を続けた。
 「で、僕は趣味程度とはいえ、物を書いてる人間だ。そんな人間に『彼』をおちおち会わせたりしたら、どんなことを書かれるか分かったものじゃない、君はそう考えたんだろう?」
 「そんなことはない…でも…君だって、聖書や神話から題材を取るように、実在の人物から題材を取ることだってあるんだろう?」
 おずおずと僕の顔色を伺いながら、喋るロナルドに僕はため息をついた。
 「そりゃあ、確かに僕もね、実在の人間を小説に拝借したことがないわけじゃないよ、」
 何か言いたげに口を開いたロナルドを手を挙げて制して、僕は先を続けた。
 「でもね、それは絵に例えればデッサンだよ、デッサン。簡単な印象や骨格を写したりはするかもしれない。でもそれだけでは到底一つの絵画にはならないんだ。分かるかい?」
 ロナルドはこういう芸術論にはとことん弱い。彼はしばらく考え込んでいたが、素直に首を振った。僕は要約して簡単にこう言った。
 「つまり、この退屈なロンドンに、小説になりそうな人間なんかいない、って言いたいんだよ。」
 僕のこの言葉はロナルドをいくらか安心させたらしい。彼はいくらか顔色を取り戻すと、
 「じゃあ、君の興味をそそるような人間はこの辺りにはいない?」
 僕は肩をすくめて見せた。
 「そんな魅力的な人間はいないね。少なくとも、」
 僕が知っている限りは、と言いかけて黙りこんだ。ふと、僕の頭に一人の人間の名前が思い浮かんだのだ。彼の噂はかねてから聞いていた。彼は貴族で、僕と面識はないが、最近あるゴシップの渦中の人物で、名前だけなら誰でも知っていた。
 「いや…全くいない、というわけでもない…」
 ロナルドの顔が訝しげに歪んだ。
 僕を見る目が不安と疑念に渦巻いている。僕の思う『彼』の名前が、当っていたら、すぐにでも部屋から追い出されそうな雰囲気だ。一体どうしたものか。
 僕は一つ、かまをかけてみることにした。わざと残念そうに肩をすくめて見せる。
 「でも、無理だね。二人とも今はどこにいるか分からない。」
 僕の「二人」という言葉を聞いて、ロナルドが安堵のため息をつくのが分かった。疑念と不安の瞳は一転して、心なしか笑みさえ浮かんでいる。…よくこんな性格で今まで医者なんかやってこれたものだ。
 「誰だい?」
 「フローラ夫人とゼフィルス卿。でも二人は一年前から行方不明だ。」
 途端に真っ青な顔になったロナルドを見て、僕は笑い転げた。
 「やっぱりね!アラクーン卿だろう!?なるほど、確かに彼なら小説にもなりそうだ。もちろん、僕にも紹介してくれるだろう?」
 ロナルドが呻いたまさにその時、玄関でドアベルが鳴り響いた。


 アラクーン卿は最初、ソファに座っている僕を見つけると、あからさまに眉をしかめた。僕は卿から見えないように、ロナルドの足を軽く小突く。どうしたものか、と不安気に卿と僕の顔を見比べているロナルドに、僕はにっこりと微笑んだ。
 もちろん、僕を友人として紹介してくれるんだろう?
 僕の満面の笑みに、ロナルドは観念したようだ。軽くため息をつくと、ロナルドは卿に向き直った。
 「…アラクーン卿、こちらオスカー・オズワルド。私の友人です。」
 何か言いたげに口を開いたアラクーン卿の手をすかさず取ると、僕は強引に握手をした。
 「今日はお目にかかれて大変光栄です。」
 卿は、満面の笑みを浮かべる僕と目を合わせようともしない。視線をスライドさせると、僕の後ろのロナルドを睨んだ。
 「……今日は君と二人きりで話ができると聞いていたのだが、ロナルド。」
 背後でロナルドがすくんだのが、僕にも分かった。あの冷たいブルーアイズで睨まれたら、仕方のないことだ。僕は卿の視界に入るよう、一歩進みでると笑顔で言った。
 「僕のことはお気になさらず。そこにある、」
 とテーブルの上を指差す。
 「花瓶と同じだと思って頂ければ。」
 ぴくり、と卿の眉がひきつったのに僕も気付いた。
 「まぁまぁ、立ちっ放しでいることもない。どうぞ二人ともソファに。」
 アラクーン卿の不機嫌な様子に、ロナルドが慌ててソファを勧めた。
 卿は大人しくソファに腰掛けたがそれっきり、僕に対して何も言おうとしない。テーブルの上の花瓶ほども、僕のことは気にしていないようだ。
 まぁ、それはそれでいい。
 卿が咎めないのをいいことに、僕は向かいのソファの彼をまじまじと見つめた。
 漆黒の髪の下、青く光るサファイア。この深く蒼い双眸が、昔はどんな酷薄な色をたたえていたのか。顔に刻まれた皺は、彼の容貌を損ねるものでは決してない。けれどそれは、青葉のような瑞々しさ、あのオリーブの若木のしなやかさを、時が削り取っていった傷跡に変わりないのだ。僕は月日の流れの残酷さというものを感じた。
 あと五年、いや十年。あと十年早くアラクーン卿と出会っていたならば。
 僕は苛立ちに歯噛みしながら、二人の会話に耳を傾けていた。それはアラクーン卿本人に比べたら、実に退屈な話だった。
 僕の推理はあらかた当っていたらしい。アラクーン卿は、失踪したフローラ夫人についてロナルドに色々と頼んでいたようだ。ロナルドはフローラ夫人が、怪我や病で医院を訪れたことがないかどうか、知り合いの医院に調べて貰っていたらしい。夫人が何か事件に巻き込まれた場合を考えてのことだろう。
 その他にもロナルドは色々と手を回したようだが、いずれも結果は芳しくないものばかりだった。ロナルドの報告を聞くたびに卿は一つため息をついた。
 卿とフローラ夫人の仲睦まじいことは噂で聞いていた。確かにフローラ夫人の身を案ずる卿の様子は痛々しく、世間で囁かれている恐ろしい推測は全くのデマだろうと僕は思った。
 しかし、僕は卿の様子に奇妙な違和感を覚えた。
 それを一体、なんと説明したら良いのだろう。
 そう、強いて例えるなら、『子供』だ。
 僕にはアラクーン卿が、おもちゃを失くしてむずがっている子供のように見えたのだ。
 「……警察にはお話しになりましたか。」
 独り言のように呟いた言葉に驚いて、二人が僕の方を見た。
 「個人の力では限界があります。ロナルドも頑張っているようですが、一刻も早く夫人を見つけたいのなら、警察の協力を仰ぐべきです。」
 蒼い二つの眼が僕を睨みつけていた。僕は肩を軽くすくめて笑った。
 「花瓶が余計な口を聞きました。」
 「いや、オスカーのいう通りだ。」
 僕の弁護に回ったロナルドを、卿が驚いて見た。ロナルドも卿を強く見返す。
 「僕の力ではここまでが限度だ。一刻も早く夫人を見つけたいと思うなら、警察の力を借りるべきだと僕も思う。」
 ロナルドの言葉に僕も頷いた。
 「すぐにでも、警察に相談なさるべきですね。このままでは、貴方にまで疑いがかかります。」
 「オスカー!」
 ロナルドに諌められて、僕は素直に口を閉じた。
 …フローラ夫人失踪について、世間の噂はほぼ二つの意見で割れていた。つまり、ゼフィルス卿とフローラ夫人の駆け落ち説と、アラクーン卿犯人説の二つである。
 くすり、とその時微かに、アラクーン卿が微笑んだ。
 「……確かに私は、歴代の殺人鬼と私の名前が並べられるのを聞きました。」
 「なら、なおさら…」
 「しかし、それが如何ほどのことでしょう。」
 卿はゆっくりと、ロナルドから僕へ視線を移した。僕は愕然とした。その瞳には恐ろしいくらい、何の感情もこもっていなかったのだ。ただ美しい宝石か何かのように、それは光っていた。
 「フローラと弟の噂は私も知っています。私はこれ以上ことを大きくしたくはない、妻を傷つけたくはないのです。」
 壁の時計に目をやると卿は
 「家で娘が待っていますので、失礼。」
 とそのまま席を立った。
 僕はそれを夢の中の出来事か何かのようにただ見ていた。
 「オスカー!なんてことを言うんだ!かりにも妻が失踪して、傷ついている卿に向かって!……オスカー?」
 ロナルドの言葉が遠くどこかで聞こえた。僕の頭の中では、先程の卿の青く冷たいサファイアが残像のように瞬いていた。


 外では先程から降り出した雨に濡れ、石畳がガス灯の光で飴細工のように光っていた。石畳から立ちのぼるロンドンの雨の香りが辺りを包んでいる。
 辻馬車を拾うと、アラクーン卿はソファに深く身体を沈めた。
 身体の中に澱のように疲労がたゆたっている。不機嫌そうに眉根を寄せると、卿はぼんやりと先程の招かれざる客のことを思い出していた。
 オスカーとかいったか、あの青年。
 思い出すだけでも腹が立つ。趣味の悪い臙脂色のタイ、緑柱石をあしらった安っぽいカフスボタン、気障ったらしくウェーブのかかった栗色の前髪、自分が何もかもできると信じて疑わない、青年特有の強い自意識。オスカーの何もかもが卿を苛立たせた。
 しかし、なんといっても許せないのは、オスカーのあの薄茶の瞳だった。
 ロナルドと話している最中のあの探るようなオスカーの眼を思い出して、卿はますます不機嫌になった。全く、なんという眼で人を見る青年だろう。獲物を値踏みするような眼、いや、しなやかな黒猫の二つの不吉な輝き。
 ああ、そうだあれは猫の眼だ、と卿は思った。ねずみをいたぶる時の猫の眼。いつ爪にひっかけてやろうかとタイミングを見計らっている時の猫の瞳。
 知らず彼の口が笑みの形に歪んだ。
 まあ、いいだろう。仔猫はせいぜいおもちゃでじゃらしておけばいい。仕置きが必要なのは、手をひっかかれたその時だ。
 旦那、旦那、と呼びかける御者の声で、卿は我に帰った。
 「どこまで行きますかい?」
 御者に行き先を告げると、卿は眼を瞑り馬車の揺れに身を任せた。


 「お帰りなさいませ。すぐにお食事になさいますか。」
 屋敷に着く頃には、時計はすでに十時を回っていた。玄関で出迎えたアドニスに夕食は自室で済ますことを告げると
 「アネモネは?」
 と尋ねた。アドニスは苦笑すると、
 「九時までは頑張って待っていらっしゃったんですが…」
 「もう眠ったか。」
 「はい。」
 「そうか。」
 頷きつつ、アネモネの部屋へと足を向けた卿に、アドニスは訝しげな顔をした。それを見た卿はふっと口の端に笑みを浮かべて、
 「いや、起こしたりはしない。寝顔を見るだけだ。」
 「……はい。」
 目の端にアドニスの何か言いたげな顔が映ったが、卿はそのままアネモネの部屋へと向かった。


   音を立てぬよう、ゆっくりとドアノブを回すと卿は部屋の中に入った。窓から入る月明かりにぼんやりとアネモネの小さな白い顔が浮かび上がっている。その白い顔を縁取るように金色の長い髪が波打っていた。
 その光景に、卿はしばらくドアの所に立ちつくしていた。月明かりの下、眠るアネモネはまるで死んだ娘のようで。硝子細工のように触れれば、いとも簡単に崩れ落ちそうな気さえする。
 卿はランプはつけることはせずに、そのままゆっくりと歩みを進めると、ベッドの端に腰かけた。そのまま、アネモネの髪を梳くようにそっと触れる。薄明の中でアネモネの髪は銀とも金ともつかぬ色に輝いている。その様子を見ながら、卿はうっとりと目を細めた。
 アネモネ。私の望んだ娘。一体お前を得るために、私が何年待ったかお前は知るまい。
 その時アネモネが僅かに顔を歪め、うんん、とかすかな声を上げた。卿は髪を梳いていた手を止めるとゆっくりと腰を上げ、アネモネの部屋を後にした。


 部屋に入ってすぐランプに火をつけると、暗闇の中できらりと鋭く光るものがあった。灯にぼんやりと浮かび上がるのは壁の硝子箱。その中には、青や紫の羽を持つ蝶々達がひっそりと眠っている。  卿の部屋には、彼のコレクションの中でも選りすぐりの物が飾ってある。その中でもひときわ鮮やかなブルーの蝶の標本箱をそっと外すと、ぽっかりとそこに暗闇が現れた。その暗闇へと手を伸ばし、下側の壁をスライドさせると、暗闇が人一人が通れる程の大きさへと変わった。卿は片手にアドニスに用意させた一人分の食事を持ったまま、もう片方の手にランプを取ると、まるで吸い込まれるように、その暗闇の中へと消えていった。
 暗闇の中、階段を下へ下へと降りていくと、ひらけた場所へと辿り着いた。
 月明かりがぼんやりと照らし出すのは鎖で壁に繋ぎ止められた一人の男。美しい銀髪の下から覗くブルーアイズはよく見れば、右眼はえぐりとられ、拷問の跡か、壁に飛び散った血がまるで、蝶の羽のように見える。
 「ゼフィルス、」
 とアラクーン卿が名を呼ぶと、男はわずかに顔だけを動かし、卿の方を見た。
 「……これはこれは兄上。」
 男はにたりと口の端をつり上げると、さも可笑しそうに笑った。卿はそれに構う様子もなく男の方へ近寄ると、無造作に銀の皿に乗った食事を差し出した。
 「食事を持ってきた。食べろ。」
 男は目の前の食事には一瞥もくれず、どこか遠いところを見たまま言った。
 「フローラは見つかりましたか兄上?」
 その言葉にアラクーン卿が顔を歪めるのを見ると、ゼフィルスはさも面白そうにくつくつと笑い声を立てた。
 「いい加減、無駄なことはお止しなさい、兄上。フローラはもうこのロンドンにはおりません。」
 銀の皿が音を立てて床に落ち、食事が辺りに散乱した。わなわなと震える腕でゼフィルスの前髪を掴むと、卿はそのまま壁に打ち付けた。息も荒くゼフィルスを睨みつけ、
 「では、フローラはどこにいる?」
 取り乱す卿の姿をさも面白そうに眺めるとゼフィルスは笑った。
 「殺しました。彼女は今は暗いテムズ河の底。」
 その言葉をハッと笑い飛ばすと、卿はゼフィルスを突き放した。
 「ねずみ一匹殺せぬような心優しいお前がか?」
 「心優しい私は兄の毒牙にかかるよりは、とフローラを殺しました。」
 「『兄の毒牙』か!良く言う!私の結婚に反対し、フローラを蔑み『娼婦』とまで呼んだお前が!」
 「話してみれば少女のような方でした。」
 ゼフィルスの言葉に卿はふっと口を歪めた。
 「いいや、やはりあれは『娼婦』だ。お前と通じるようではな。」
 愚かなフローラ――とゼフィルスは思った。
 愚かなフローラ。哀れなフローラ。場末の、貧しい役者娘だったフローラ。
 豊かな生活を夢見て嫁いで来ただけなのに――。
 ふいに顎を掴まれて、ゼフィルスは驚いて顔を上げた。兄の青い双眸には冷たい光が宿り、口元には歪んだ笑みがたたえられていた。
 「アネモネはもう十になった。」
 うっとりとしたその声音にゼフィルスは戦慄した。その声は娘の成長を喜ぶ父親のものでは無い。それはまるで恋人の名でも呼ぶような声をしていた。
 「フローラに似てきた。いいや、お前に似たのだろうか、ゼフィルス。金の髪にところどころ銀髪が混ざって…ああ、そう、――」
 卿はつい、と今はもうないゼフィルスの右目の辺りに手をやりくすりと笑った。
 「あのブルーアイズはお前譲りだな。」
 「アネモネには手を出すな。」
 突然低い声を出した弟に、一瞬呆気に取られたが、アラクーン卿はゼフィルスを眺めるとさも愉快そうに笑った。
 「お前らしくもないな、ゼフィルス。それとも『父性愛』とやらに目覚めたのか?」
 「アネモネは関係ない、あの子は関係ない筈です。」
 「関係ない?何も分かっていないのだな。お前は。」
 ゼフィルスの言葉に卿は笑い声を立てた。
 「アネモネは美しく育つだろう。隣にフローラを並べられないのが残念だが――…あの子は私のコレクションの中でも最高のものになるだろう。」
 まるで兄の手から逃れるようにゼフィルスは首を横に振った。
 「分からない。私には分かりません兄上――」
 死人の胎内から産まれ、母のぬくもりも知らず育った…そんな貴方の孤独は私には分からない――。
 顔を背けた弟にくつと笑い声を漏らすとアラクーン卿は言った。
 「分からなくても良い、ゼフィルス。お前はただここで全てを見ていれば良い。」
 地下牢の中にアラクーン卿の笑い声が響いた。その声がゆっくりと遠ざかっていくのをゼフィルスは眼を閉じてただ聞いていた。


地下に弟を監禁するお兄ちゃんのお話でした☆(←身も蓋もない)
このくらいではBLにはならんだろう、ということで注意書きその他はつけておりませんが、こういうの嫌いな方はごめんなさいm(_ _;)m
え〜これも『虜』と同じく、『ムーディー100題』でチャレンジしていたのですが、しゃおさんのイラストは描き上がったのに、いつまでたっても音澄の小説はアップされぬまま、旧サイト(犬猫協奏曲)は閉鎖してしまったという…幻の小説ですね!!(←付加価値をつけてみようとあがいてみる)
読んだ方はなんとなく分かるかもしれませんが、これを書いていた当時、ホームズにどっぷり浸かっていましてですね(笑)
肝心のアラクーン卿&ゼフィルスのシーンよりオスカーの推理(モドキ)シーンが長くなってしまいました…orzちなみにオスカーのエセ推理は話術8割、推理2割です(´▽`)

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