#08「猫の眼」
猫は自分の目の前に座る人間をまじまじと見つめた。
(……こいつが『ねずみ』…?)
線の細い身体をブルーグレーのスーツに包み、優雅に微笑む『ねずみ』はとてもではないが、この地下の組織を纏めている人間には見えなかった。
こんな女みたいな奴が…とそこまで考えて、猫はまた、『ねずみ』を見つめた。
女のような、と猫は今思ったが、では本当にねずみが女なのか、と考えると猫には判断がつかなかった。
ならば、男なのか、と考えるとそれもまた分からない。整った顔立ちと華奢な身体つきは、とても男のものとは思えなかったし、まるで王者のようにソファに構えるその風格は女のようには見えなかった。
『ねずみ』は灰色の瞳を細めると、猫を一瞥したが、すぐに野良犬の方を見ると微笑んで言った。
「君の方から訪ねてくるなんて、珍しいじゃないか」
「追われている。少しの間かくまって欲しい」
野良犬がそれだけ言うと『ねずみ』はやれやれ、とでもいうように首を振ってみせた。
「相変わらず、君は語彙というか文章力というか…欠如しているね。それとも説明する気がない、ということなのかな?」
黙ったまま答えない野良犬を見て、ねずみは溜息をついた。
「まぁ、いいだろう。君のそれは今に始まったことじゃないし。…でも、僕が無償で協力するとでも?」
「みやげなら持ってきた」
そういうと野良犬は『アヤセ』から受け取った例の紙袋を取り出した。『ねずみ』は紙袋を受け取ると、中を見た。『ねずみ』の顔色が変わる。
猫はそれを見て、ごくりと唾を飲み込んだ。
これだけ巨大な組織を纏める、『ねずみ』のための『みやげ』だ。よほどの品物に違いない。
『ねずみ』が紙袋の中身を恐る恐る取り出した。『ねずみ』へのみやげ、それは…
女子高生のセーラー服だった。
「素晴らしい…!!」
『ねずみ』が恍惚とした表情で言った。
「はああぁぁああ!?」
猫が思わず大声を上げた。
「おい…!!ちょっと!なんだんだよ!アレ!!」
恍惚とした表情で制服を眺める『ねずみ』を横に、猫が野良犬の脇をつついた。
「…セーラー服だ」
「それは見れば分かるって!!なんで『みやげ』がセーラー服なんだよっ!…もっとこう、あるだろ!ヤバめのクスリとか、レアな武器とか…!」
「…普通の女子学生がそんな物を持っていると思うのか…?」
「それはそーだけど!いくらなんでもあんな物じゃ…!」
そう言って、『ねずみ』の方を見ると、うっとりとした表情のまま何やらぶつぶつ呟いている。
「…間違いない、これは聖・花音女学園のセーラー服の初代デザイン…!長めのスカート丈が野暮ったさを感じさせるが、これこそ、古き良き時代の日本を感じさせる真のセーラー服…!」
完全に自分の世界に入っているねずみを見て、野良犬がぽつりと言った。
「……ねずみはコスプレマニアなんだ」
「……組織のボスがコスプレマニア…」
恐らく『ねずみ』の一員なのであろう、猫と野良犬を囲むようにして立つ周りの人間に、猫が一種の憐れみを感じつつ呟いた。
「…いいだろう。『みやげ』に不足はない。我々『ねずみ』でかくまってあげよう」
ふう、と野良犬が安堵のため息をついたのと同時に、猫を囲むようにして立っていた周りの『ねずみ』達がかちゃり、と猫に銃を向けた。
「…これはどういうことだ」
驚いて思わず野良犬に身体を寄せた猫を庇うようにして、野良犬が言った。
「ただし『D』、我々がかくまうのは君だけだ。少年…いや、『猫』と呼べばいいのかな?」
口元を歪めてねずみが笑った。それは野良犬に向けた微笑みとはまるで違う、何かぞっとするような笑みだった。
「君には大分、仲間が世話になったからね…。『キツネ』という男を覚えているかい?」
猫はしばらく考え込んでいたが、首を傾げた。
それを見て、『ねずみ』は初め胡乱気な顔をしていたが、何かを理解すると急に大声を上げて笑い始めた。
「ははははは!……そういうことか!自分が殺した人間に『名前』があることすら、想像しなかったのかい!」
そうかい、そうかい、と『ねずみ』はくつくつと笑っていたが、急に顔を上げると猫に笑いかけた。それは憎悪と狂気をはらんだ笑みだった。
「…大嫌いだよ、君のような想像力のかけらもない子供は」
その言葉を合図に、周りに居た『ねずみ』達は野良犬を猫から引き離すと、猫を取り押さえた。
「何するんだよ!」
事態が飲み込めず暴れる猫の額に『ねずみ』がかちゃり、と銃口をつけた。
「止めろ!」
そう叫んだ野良犬を『ねずみ』の一員である男が床に押さえこんだ。その時、猫に付けられた首の傷に触れられて、野良犬は痛みに顔を歪めた。
「おやおや、首に怪我をしてるのかい?」
僅かな野良犬の表情の変化を見逃さなかった『ねずみ』がにっこりと笑った。野良犬を押さえつけている男に『ねずみ』が頷くと、別の男が野良犬の首を踏む。
「ぐああああ!」
「野良犬!」
思わず悲鳴を上げた野良犬に、猫はぎり、と『ねずみ』を睨みつけた。そんな猫の視線を気にもせず、『ねずみ』はにっこりと笑った。
「大丈夫。『D』は後で優秀なドクターに診て貰うからね。それより自分の心配をしたらどうだい?」
ぐい、と『ねずみ』が猫の額に銃口を押し付けた。冷たいその感触に、額に汗が浮かぶ。猫は目だけを動かして辺りを見回した。
このフロアにいる人間は全て『ねずみ』なのだろう。唯一の味方である野良犬は男に取り押さえられている。
(絶体絶命か…)
その時、何故かふっと猫が口の端を歪めた。その笑みを見て『ねずみ』が眉根を寄せる。
猫は命乞いをするわけでもなく、『ねずみ』を罵るでもなく、ただかすかに笑っていた。
その猫の顔を見て、取り押さえられていた野良犬は愕然とした。
先程まで憎しみと恐れに満ちていた猫の瞳が、ゆっくりとその光を失っていくのを野良犬は見た。
かすかな笑みさえ浮かべ、自分を殺そうとする『ねずみ』に憐れみさえ感じているかのようなその瞳に野良犬は背筋が震えるのを感じた。
今朝見た悪夢が野良犬の脳裏をよぎる。
むせ返るような血の匂い。
次第に重く冷たくなっていく身体。
今も繰り返し見る夢の中で、あの人は確かに笑っていた――まるで誰かを憐れむように。
「止めろおおおおお!!」
気付くと、野良犬はそう叫んでいた。
まるで泣いているかのような悲痛な野良犬の叫びに、茫然と猫を見ていた『ねずみ』も我に返った。
『ねずみ』は猫と野良犬を交互に見つめていたが、野良犬を取り押さえていた男に合図を送った。
「ぐ…っ!」
男にみぞおちを蹴られた野良犬はそのまま意識を失った。
* * * * * * * * * * *
「……様!旦那様!」
むせ返るような血の匂いの中、自分はその身体をしっかりと抱きかかえていた。
「……テ、もういい。放せ」
耳元で囁く低い声に、瞳を閉じたまま首を左右に振る。
笑いながら振り下ろされる凶器が、背中をずたずたに切り裂く。引き裂かれた背中は燃えるように熱く脈打ち、痛みはすでに感じなくなっていた。
抱きしめた身体がゆっくりと体温を失っていく。背中を切り裂くするどい痛みに耐えていると何か温かいものが頬に触れた。
差し出されたその手を強く握りしめる。それを見てその人は微かに笑っていた。
その人の瞳には、憎しみも恐れもなかった。
ただ哀しげな笑みが浮かんでいた…。
* * * * * * * * * * *
「……ぬ!…野良犬!」
誰かに名前を呼ばれて、野良犬は目を覚ました。
自分の顔を覗き込む白衣姿の男には見覚えがあった。
「アウル…?」
「手術は無事終わりました。首の傷の縫合も上手くいきましたよ」
医者らしく、淡々と告げるアウルに野良犬はぼんやりと辺りを見回す。
「お前…何故こんなところに…」
野良犬の言葉にアウルは深くため息を吐いた。
「それは、こっちが聞きたいですね…。知らない男達に連れて来られて…。いきなり、はい、手術だ、相応の金は払うって、目の前に札束積まれて…。まさか、こんなところで貴方に会うとは思いませんでしたよ」
まだ麻酔が効いているらしい、ぼんやりとした頭でアウルの声を聞いていた野良犬は、急に我に返るとアウルの胸元を掴んだ。
「猫…猫はどうした!?」
「ね、猫って…?」
「薄茶の瞳に茶色の髪をした…」
「あ、ああ。あの子も私が手当てしました。今はここのボスの部屋にいるとか…」
アウルの言葉を聞くなり、野良犬は立ち上がると駆け出した。
「ちょっと!野良犬!?術後の運動は控えて下さいよ!」
そんなアウルの声が後ろに聞こえたような気がしたが、野良犬はそれも振り切って目指す部屋へと急ぐ。
『鼠狩り』をしていた猫をねずみが簡単に許すとは思えない。一体、何のために猫をねずみがアウルに手当てさせたのかは分からなかったが、猫をそのまま無事に返すはずがない。
色々な考えが頭をよぎったが、野良犬は目指す部屋を見つけるとその前に止まった。
「ちょ…ちょっと貴方…術後なのになんでそんなに元気なんですか…」
やっとの思いで野良犬に追い付いたアウルがそう言ったが、野良犬の耳には届いていなかった。
質素だが意匠の凝らされたドア。野良犬は勢いよくそれを開いた。
「…何をしている。」
野良犬はドアを開いて、呆然と呟いた。そこには…
セーラー服を着た猫とそれを楽しげに眺めるねずみがいたのである。
「ちょ…!なんでアンタがここにいるんだよ!?」
猫が恥ずかしそうに、セーラー服のスカートの裾を引っ張った。ねずみはソファに寝そべりながら、猫と野良犬の顔を交互に見て、何故か満足げに目を細めた。
「おや、手術は無事に終わったようだね。」
にっこりと自分に向かって微笑んだねずみに、野良犬はまだ思考が追いつかない。
「何をしてるんだ…お前達?」
「野球拳〜∞〜」
セーラー服姿のまま、答えた猫に野良犬は胡乱げに眉を寄せ、またねずみを見た。
「私が、考えた遊びでね。ジャンケンをして、負けた方が衣服を脱いでいく、というのは野球拳と同じだ。野球拳〜∞〜は、負けた方が裸になってもジャンケンを続け、今度は相手の指定した衣服を一枚ずつ着ていく。そして全て着たら、また脱いでいく、という、正に∞(無限)に続く野球拳さ。」
野良犬は着衣に全く乱れのないねずみと、セーラー服姿の猫を見比べた。つまり、猫が負け続けた結果、ねずみの指定したセーラー服(よく見れば、野良犬が持ってきたみやげである)を着させられた、ということらしい。
「衣服を脱いでいくというのも、もちろん悪くはないのだが、衣服を一枚ずつ身に纏っていく、というのはこれもまたフェティシズムの心をくすぐるものだね。Dもやってみるかい?」
「断る」
即答した野良犬に、残念そうな顔をして、ねずみは肩をすくめた。
「おや?そちらは……」
野良犬の後ろにいるアウルに気付くと、ねずみは右手を差し出した。
「Dの手術をしてくれたドクターだね?ありがとう」
それまでボーっと三人のやりとりを見ていたアウルは、急に差し出された右手に戸惑ってねずみの顔を見た。
「あの、貴方は……?」
「ああ、これは失礼。挨拶もまだだったね。私はこの辺りで、『ねずみ』と呼ばれている者です」
「『ねずみ』!?貴方が!?」
アウルは驚きに目を開くと、目の前の人間を見た。細い身体に男とも女ともつかぬ美しい顔立ち。この人間があの地下の組織を纏めている『ねずみ』なのか。
そのアウルの様子にねずみはくすくすと笑った。
「私が『ねずみ』では可笑しいですか?」
ねずみの言葉に何故か頬を赤らめ、アウルが慌てて首を振る。
「いや!悪い意味ではなくて…!!貴方のような美し…いえ、華奢な方がまさか『ねずみ』だとは…」
「組織を纏めるのに、体型が関係ありますか?ドクター?」
にっこりと微笑んだねずみを見て、アウルはますます顔を赤くした。
そんなアウルを見て、ふふと笑うとねずみは再び、右手を差し出した。
「ドクター、Dを助けてくれてありがとう」
「いえ!とんでもありません…!人の命を救うことは医者の使命ですから…!」
…ついさっきまで、文句を言っていたのはどこの誰だったやら。
紅潮した頬でねずみと握手を交わすアウルを見ながら、何か、面倒なことになりそうだ、と直感的に野良犬は思った。
…いや、面倒ごとは既に起きているではないか。
「お前…いつまで、その格好でいるんだ?」
野良犬は傍らのセーラー服姿の猫を見て言った。
「な…!?こんなんすぐ脱ぐっつーの!」
野良犬に言われて改めて恥ずかしくなったのか、セーラー服を脱ごうとした猫にねずみが言った。
「おや、野球拳〜∞〜の続きはしないのかい?」
「しねーよ!!だって、アンタ全然負けないじゃん!」
「大体、貴方なんでそんな遊びをしてたんですか?」
アウルの疑問に猫はねずみを指さした。
「だって気になるじゃん!男か女か!」
猫の答えに何を想像したのか、アウルが顔を赤らめ、ごくりと生唾を飲みこんだ。
「確かに…それは、非常に魅力的な疑問ではありますね…」
「???みりょくてき??」
「ななな、なんでもありませんよ!!」
首を傾げた猫にアウルが我に返って言った。
そんな二人のやりとりを、部外者面でにこにこと見ているねずみに野良犬がぽつりと言った。
「……どういうつもりだ?」
「何がだい?」
「……鼠狩りをしていた猫をお前が簡単に許すとは思えない。何故、猫を助けた。何が狙いだ」
その質問には答えず、ねずみは目を細めて猫を見ると懐かしげに言った。
「……眼が似ているね」
ねずみの言葉にぴくり、と野良犬が眉を動かした。苦々しい表情をしている野良犬にねずみは
「そんな顔をするものではないよ」
と少し悲しげに笑った。
「興味が湧いただけさ。君が守ろうとしたあの子にね」
野良犬はねずみの言葉に顔を背け、吐き捨てるように言った。
「…あれはただの依頼人だ」
野良犬の言葉にやれやれというようにねずみは苦笑いした。
「まぁ、そういうことにしておこうか」
今はまだね、とねずみは胸中でそっと呟いた。
「弟が『ねずみ』のところにいる…!?」
セイとリュウの報告に黒猫は顔色を無くした。
さすがに黒猫も『ねずみ』の名は知っていた。巨大な地下にある組織をたった一人で纏めている人間。
「無事なんだろうな!?あの子は!?」
「今のところは、って感じですかね〜」
リュウの言葉に黒猫は安堵のため息を吐いた。
軽い口調で言ったリュウをセイは横目で睨む。はいはい、とでも言いたげに肩をすくめるリュウ。
「何を考えてねずみが猫をそばに置いているかは分かりませんが……猫を奪還することがより困難になったのは間違いありません」
セイの言葉に黒猫は険しい顔をした。
「つまり、何が言いたい」
「私達二人ではこの仕事は難しい」
黒猫は思わず、立ち上がってテーブルを叩いた。
「今更、降りるというのか!?」
「協力者を頼みたい、と言っているのです」
「協力者……?」
「『蜘蛛』に協力を依頼したいと考えています」
グラスの割れる音が室内に響く。
続いて、がたり、と大きな音を立てて、男が崩れ落ちた。
「はい♪おじさんの負けー♪」
にこにこと笑いながら、そう言ったのは紺色の制服を着た少女だった。
両側で結んだ髪がふわふわと頬の辺りで揺れる少女はまだ17くらいだろうか。
同じ制服の、髪を短めに揃えたもう一人の少女が携帯電話を手に取った。
「もしもし、『蜘蛛』です。『獲物』を拘束しました。部屋番号は303です」
事務的な少女のその声に、電話の向こうで男がため息をつく気配がした。
『分かった。すぐに回収に向かう』
電話越しに聞こえた声に、倒れている男は恐怖に顔を強張らせた。
「頼む!見逃してくれ…!金…!金なら払うから…っ!」
懇願する男に携帯電話を手にしていた少女は、まるで汚い物でも見るかのような眼で男を一瞥すると冷淡に言い放った。
「お金なら、今から迎えに来る人達に返したら?」
その言葉にふわふわとした髪をまとめた少女がくすくすと笑った。
「ハルカ、それひどーい」
ハルカと呼ばれた少女は、もう一人の少女の手を取ると、男の方には振り向きもせず、ドアノブに手を掛けた。
「いいから、行くよ、サキ」
「は〜い!じゃあね、おじさん、ばいば〜い☆」
サキは倒れている男の方に手を振ると、そのままハルカの後に続いて部屋を出た。背後で男の哀願の声が聞えたような気がしたが、それもすぐ周囲の音にかき消された。
一階へ向かうエレベーターの中でハルカは淡々と言った。
「男ってほんとバカだね。なんで、逃げられないって分かってるのに逃げようとするんだろう」
ハルカの言葉にサキはくすくす笑った。
「ほんとだよね〜。…私ならもっと上手くやるけどな〜」
ハルカはそう言ったサキの手を強く握りしめた。
「…私達ならもっと上手くできる」
サキはその手を握り返すと、ハルカの顔を見て呟いた。
「…そうよ、私達ならもっと上手くやるわ」
エレベーターが一階に着こうという時、携帯の受信音が響いた。
「あっ!綾瀬からメール来てるー!」
サキは携帯を広げると綾瀬のメールを開いた。
『例の人と会ったけど、超ハズレ!!しかも男連れだよ?信じられるー?』
「げっ!リアルでBLとかキモーい」
思わずサキが呟いた時、隣でハルカの携帯が鳴った。無言で携帯を確認するハルカ。
「ねぇねぇ『サキ、今ヒマ?皆でお茶しよー!!』って、綾瀬からメール来たんだけど行ってもいい?」
ハルカの腕に腕をからめながら、どこか甘えるような声で言ったサキにハルカは首を振ると、自分の携帯を見せた。
「それ、後にして。仕事。」
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