#07「ねずみ」
むせ返るような血の匂いの中、自分はその身体をしっかりと抱きかかえていた。
放せ、と低い声が耳元で囁いたような気がしたが、瞳を閉じたまま首を左右に振る。
抱きしめた身体がゆっくりと体温を失っていく。背中を切り裂くするどい痛みに耐えていると何か温かいものが頬に触れた。
差し出されたその手を強く握りしめる。それを見てその人は微かに笑った。
「…最後の命令だ」
* * * * * *
背中を切り裂かれるような痛みで野良犬は目を覚ました。
身体が脈打ち、背中が燃えるように熱い。
額の脂汗を拭うと野良犬は隣のベッドに目をやった。そこには茶色の髪をした少年がすーすーと寝息を立てていた。
少年を起こさぬよう、そっとベッドから起き上がると、野良犬は窓辺に立ち、カーテンを開けた。外では久しぶりの雨が、街路樹を濡らしている。
(雨、か……)
野良犬は忌々しそうに、降り続く雨を睨みつけると、カーテンを引いた。
こんな日は昔の傷がひどく痛む。
野良犬はちりちりと疼く背中を気にしながら、浴室に向った。
コックを捻ると、ぬるい水が頭上から降り注ぐ。シャワーを浴びながら、野良犬はぼんやりと先程の夢のことを思い出していた。
次第に重く冷たくなっていく身体。
繰り返し見るその夢の中で、その人はいつも微かに笑っている。
(どうして―――)
どうして、あの人は命令してくれなかったのだろう。自分が待ち望んでいた、あのたった一言を―――
「だっせ」
背後から聞こえた声に野良犬は振り返った。
いつの間に目を覚ましたのか、猫が浴室の入り口に立っていた。猫がつつーと指先で野良犬の背中をなぞる。
そこには、今も生々しい大きな傷跡が残っていた。
「これ、全部逃げ傷じゃん。誰につけられたの?」
「……何の用だ」
低い声で不機嫌に言った野良犬を気にすることもなく、猫は飄々と言った。
「何って、シャワー。俺も浴びたいんだけど」
そう言われて猫を見れば、すでに上半身の服を脱ぎ、手にはバスタオルを持っている。
自分を見つめる野良犬の視線に気付くと、猫は悪戯っぽく、くすりと笑った。
「それとも一緒に入る?」
野良犬は無言で猫の手首を掴むと自分の方に引き寄せ…
「わ!」
猫をシャワーの下に置くと、自分は浴室のドアからさっさと出て行ってしまった。
「って、ちょっと!」
シャワーでずぶ濡れになった猫が後ろで不満げな声を上げるのが聞えた。そのまま後ろ手にドアを閉めると野良犬はそのまま部屋に戻った。
リュウとセイから逃れたあの後。
『ねずみ』のところへ行く、という野良犬に猫は言った。
「『ねずみ』?」
不思議そうに首を傾げる猫に、今度は野良犬が怪訝そうに眉を寄せた。
「俺達とは違い、地下で動き回る人間だ…聞いたことがないか?」。
「知らない。」
首を横に振る猫に、野良犬は猫が兄に軟禁されている、というリュウの話を思い出した。外の世界のことは、兄である黒猫が猫の耳に入らぬようにしていたのだろうか。
「よく分からないけど…そいつ、頼りになるの?」
首を傾げながら尋ねる猫に野良犬は頷いた。
「敵に回せば厄介だが…味方にすれば頼りになる人間だ」
ふーん、と考えている猫からするりと腕を解くと野良犬は先に歩き出した。「あっ!」と不満そうな声を上げる猫。その声に振り向くと、野良犬は冷ややかな声で言った。
「…それよりも依頼料は払えるのか」
「え?」
「…見たところ、金の入ったアタッシュケースは置いてきたようだが」
初め、意味が分からずきょとんとしていた猫は声を上げて笑い出した。
「…何がおかしい」
「だって…お兄さん強いのにさ…」
けらけらと笑い続ける猫を冷たい目で見下ろすと野良犬は淡々と言った。
「金がないなら、俺は下りるぞ」
笑いすぎて瞳に浮かんだ涙を拭うと猫はにたりと笑った。
「お兄さん、お金好きなの?」
「生きるには金がいる。それだけだ」
その言葉に猫はアウルから聞いた言葉を思い出した。
『生きるためなら、ゴミでも漁る』か…。
「で、どうなんだ。払えるのか」
「あ〜お金なら大丈夫。アッタシュケースはダミーだし」
猫の言葉に野良犬は眉根を寄せた。
「ダミー?」
「そっ♪あんなの持ってても重いだけじゃん?それに危ないし。現金はお兄さんに会いに行く前にあるところに隠してきたんだ♪」
するり、と猫は再び野良犬の腕に自分の腕を絡ませると、蠱惑的な微笑みを浮かべた。
「それより、お兄さんの名前は?」
野良犬はにっこりと笑う猫の瞳をしばらく黙って見つめていたが
、
「…野良犬」
と言って、猫から顔を背けた。
「だから、そういうんじゃなくて!」
不満げに声を上げる猫に野良犬はぽつりと呟いた。
「名は…ない」
いない。
名前を呼ぶあの人はもういない。
怪訝そうな顔をした猫の方を向くと野良犬は言った。
「なら、お前はどうなんだ」
「え?」
「名は?」
話を逸らされた猫は、むーと不機嫌そうに頬を膨らませると、野良犬に絡めていた腕を解き、さっさと先に歩き出した。
「言わねー!!」
「じゃあ、『猫』だな」
「っるさい!『野良犬』!!」
「それで?いつになったら『ねずみ』に会いに行くの?」
不機嫌そうな声を上げた猫に野良犬はそちらを見た。
シャワーから上がったばかりの猫は、くたびれたジーンズだけを纏い、上は首からタオルをかけただけ、軽く頬を上気させ濡れた髪のまま、こちらを見つめている。
その様子をまじまじと見つめた後、野良犬はぽつりと言った。
「…上くらい着たらどうだ」
「話逸らすなっての!いつになったら『ねずみ』に会いに行くんだよ!!」
野良犬は溜息を吐くと、
「『ねずみ』に会いに行くには『みやげ』がいる」
と言った。
「『みやげ』?」
「言っただろう、敵に回すと厄介な相手だと。機嫌を損ねると面倒だ」
「じゃあ、なに?今それを準備してる…ってこと?」
「そうだ」
猫はふと、野良犬がここ二、三日、しきりに誰かとメールしていたことを思い出した。
「ちょうどいい。今日辺り、『みやげ』を受け取りに行こうと思っていたところだ。お前も一緒に来るか?」
「それで?弟も連れ戻せず、野良犬も始末できず、のこのこと帰ってきたわけか」
ソファに座った黒猫はセイとリュウのことを睨みつけるようにして言った。いらいらとリュウも黒猫のことを無言で睨み返す。
「そうは言いますけどねぇ、『傷一つつけるな』っつーのはちょっと無理な注文だと思うんですよ」
黒猫が二人に依頼したことは二つ。『野良犬を始末すること』と、もう一つは『猫を無傷で連れ戻すこと』。この二つの条件を言い渡された二人にとって、猫が犬と手を組んだのは、考えうる限り最悪のパターンだった。
「……弟が犬に依頼したのは予想外だったが…それにしても手負いの犬一匹、始末できないとはな…」
侮蔑の眼差しを向ける黒猫にリュウが何か言おうとしたのを、セイが手で遮る。
「あなたは知るはずもないが…野良犬はかつて『狂犬』と呼ばれた男です。本来なら、俺達二人でかかっても敵う相手ではない」
セイの言葉をふん、と黒猫は鼻で笑った。セイは気にせず先を続ける。
「野良犬に加え、猫の存在です。あなたが彼にどんな教育をしたのかは知らないが…恐らく猫は野良犬と五分の力を持っている」
「当然だ」
黒猫はそう言うと満足げに目を細めた。
「あの子は私が育てたようなものだからな」
「しかも猫を傷つけてはいけないとあっては、こちらの動きは制限される。ハンデを背負ったようなものだ。」
セイのこの言葉に、黒猫は二人を見て鼻で笑った。
「…ふん、確かにあの子の相手は荷が重すぎるかもしれないな。」
どこか満足げに呟いた黒猫に、思い切り口の端を引きつらせるリュウ。『なら、頼むなっつーの』とでも言いたそうなリュウの脇を軽く小突いてたしなめるセイ。
「とにかく、二人一緒では手の出しようがありません」
「なら、二人を引き離せ」
言った黒猫の眼が鋭く光った。
「野良犬を殺した後、あの子を連れ帰っても構わん。とにかく、あの子は傷つけるな。」
猫が『ねずみ』について知っている情報はあまりに少ない。
野良犬の知り合いらしいこと。地下をねぐらにしていること。敵に回すと厄介だが味方にすれば心強い人間だということ。会いに行くには『みやげ』が必要らしいこと。
ただ、これらの情報から、『ねずみ』は裏社会の人間、しかもそれなりに力を持つ人間なのではないかと、猫はぼんやりと思っていた。
そんな『ねずみ』への『みやげ』だ。ドラッグとか、なかなか入手できないような武器とか、とにかく、いわくありげな物を想像していたのだが…
「…ねぇ、待ち合わせ場所、本当にここで合ってるの?」
紺のブレザーに胸元には赤いリボン。ブレザーと揃いの紺のスカートに白いソックスを履いた少女達が野良犬と猫の前を行き過ぎる。
「ああ」
「……あのさぁ、俺達すっげー浮いてるんだけど」
猫がそう言うのも無理はない。野良犬が『待ち合わせ場所』だと言って、猫を連れてきたのは聖・花音女学園の校門前だったからだ。
恐らく下校時間なのだろう。帰途へつく少女達の好奇に満ちた視線がちくちくと二人にささる。
「ねぇ、本っ当に待ち合わせ場所、ここであってんの!?」
少女達の好奇の眼に耐えきれなくなった猫がひそひそと野良犬に耳打ちした。野良犬は無言で腕時計に目を落とす。
「もう待ち合わせの時間だ。黙って待っていろ」
野良犬がそう言い終わるか終らないうちに、校門から紙袋を持った一人の女子高生が手を振りながら、走ってきた。
「おっ待ったせ〜♪」
まるで友人に対するかのような口ぶりで、女子高生はそう言うと野良犬に腕を絡ませた。隣の猫は突然現れた女子高生に驚いて、ただ目をしぱしぱと閉じたり開いたりしている。
女子高生は腕を絡ませたまま、野良犬を見上げるとにやりと笑った。
「私だよ!『アヤセ』!…『D』でしょ!?だよね!?やったー!思ってたとおり!美形!!」
らっきー♪と言いつつ、野良犬に抱きつく女子高生に猫はただ驚いている。
「『D』?」
とわけの分からない猫が野良犬の方を見上げた。
「……ハンドルネームだ」
猫の方をちらりと見て、野良犬が言ったが、猫は「はんどる??ねーむ??」と疑問符を浮かべ首を捻っている。
そんな二人にはおかまいなしに女子高生は野良犬の腕を引っ張る。
「ね〜ここ目立つから、移動しない?ファミレスか、カラオケー!」
野良犬は猫と女子高生を見比べて、少し考え込んでいたが、
「…悪いが、時間がない」
と返事をした。女子高生はえ〜!?と不満げな声を上げたが、しばらく考えると
「じゃあ、そこのゲーセンでいいからさぁ。欲しいプライズがあるの!!」
というと野良犬の腕を取って歩き出した。
がしゃん、と音を立てて、ぬいぐるみが取り出し口から出てきた。
「やったー!これ、ずっと欲しかったのー!」
到底、かわいいとはいえないデザインのぬいぐるみを抱きしめると、『アヤセ』は喜びの声を上げた。
あのあと、結局、『アヤセ』に逆らうこともできず、野良犬は彼女に引きずられるまま、ゲームセンターへと向かった。
彼女の両腕には野良犬が取ったぬいぐるみやキーホルダー、お菓子などが抱えられている。
『アヤセ』は大量の戦利品にきゃっきゃっと喜んでいたが、ふと視線を上げると、野良犬に言った。
「ほんとう、キモイおやじだったら、無視して帰っちゃおうと思ってたんだぁ。でも私、『D』はぜったい、美形だと思ってたの!」
ぴた、と身をすりよせてくる『アヤセ』を、ちらりと一瞥すると野良犬は、ぽつりと言った。
「…それより、頼んだ物は?」
野良犬の言葉に『アヤセ』は、不機嫌そうに眉を寄せた。
「え〜、もお?まだ全然遊んでないじゃん!」
野良犬はこちらの方を遠くからそわそわと見つめている猫の方をちらりと見た。いつもの饒舌な猫はどこへいったのか。先程から猫は『アヤセ』と一定の距離を取りながら、それでいてこちらを気にするようにちらちらと視線を送ってくる。
「…俺達には時間が無い」
ぽつりと呟いた野良犬に、『アヤセ』はなおも不服そうに頬を膨らませている。野良犬はアヤセに目配せすると、懐の封筒をちらつかせた。『アヤセ』はそれをちらりと横目で見ると、ため息をついた。
『アヤセ』は憮然として紙袋を野良犬の方へ突き出す。彼がそれを受け取り、封筒を差し出すと、アヤセは乱暴にそれを野良犬の手からむしりとった。
その受け渡しの様子を見ていた猫が、そろそろと『アヤセ』と野良犬の方に近づいて来た。猫は珍しい物でも見るように野良犬の蔭から『アヤセ』の方を見ている。その視線に気付いた『アヤセ』が、猫の方を睨みつけると、猫はぴっ!と言って野良犬の蔭に隠れた。
野良犬は紙袋の中をちらりと確認すると、猫の手を取って「行くぞ」と言った。
驚いた猫はしばらく野良犬と『アヤセ』を交互に見つめていたが、黙って野良犬の後に続く。
「も〜つまんない!美形で、ホモで、ロリコンなんて、さいあく!」
背後で、『アヤセ』が叫んだのが聞えた。
黒猫に報告を終えたリュウは深くため息を吐くと、セイに言った。
「しかし、あのクソガキがそんなに可愛いかねぇ。いくら兄弟だからって、アレは異常じゃないの?」
リュウの言葉にセイもため息を吐いた。
「…いずれにしろ、この件は私達二人では限界があるな」
「その意見には俺も賛成」
リュウが深く頷く。
「しかし…問題は誰に協力を頼むか、だな」
セイが難しい顔をして言った。
野良犬を殺し、なおかつ猫には傷一つ負わせないとなると、彼らに匹敵する力量を持つ人間、いや、彼ら以上の力を持つ人間でなければならないだろう。
「はいはーい!『ねずみ』に頼むのはどうでしょう☆」
勢いよく手を上げたリュウをセイはじとり、と睨みつけた。
「…あの気まぐれな『ねずみ』が、そんな簡単に手を貸してくれると思っているのか?」
「だよな〜」
あははと力なく笑い、手をおろすリュウ。しかし、セイはリュウの言葉に何か考え込んでいる。
「いや…でも…そうか、『ねずみ』か!」
え?とリュウが眉根を寄せた。
「野良犬の行先だ。二人は『ねずみ』のところに身を寄せるつもりなんじゃないのか?」
セイの言葉にリュウも指をならし頷いた。
「それあり得るな。野良犬と『ねずみ』は古い知り合いだし。よし!そうだとすれば、『ねずみ』のところに先回りして…どうした?」
急に表情を曇らせたセイにリュウが訝しげな顔をした。
「…『ねずみ』は猫をどう思っている?」
「へ?」
「『猫』は『鼠狩り』をして散々『ねずみ』のテリトリーを荒らしている。…『ねずみ』は『猫』のことを良く思ってないんじゃないのか?」
二人の間に重い沈黙が流れる。「てゆーか」とリュウが言った。
「…多分、めちゃくちゃ怒ってるな」
野良犬が「ねずみのところに行く」と言って、猫を連れて来たのは、半地下にある怪しげなバーだった。
オーナーと思しき男に、野良犬が一言二言話すと、彼は無言でカウンターを開け、奥へついてくるよう、ジェスチャーをした。男の後へ付いて奥へと野良犬は進む。慌てて猫も野良犬の後を追った。
「……『ねずみ』の語源は『根』に『住む』者だから、だと言われている。」
カウンターの奥は小部屋になっており、そこから更に階段が続いていた。前を行く男には聞えぬよう、野良犬が小さな声で猫に言った。
「その名の通り、彼らは表立った行動は起こさず、いつもひっそりと仕事を成し遂げる」
野良犬の言葉に猫は眉を寄せた。
「ちょっと待てよ、『彼ら』?」
「…『ねずみ』とは、ある組織の通称だ。そして一人の人間の名前でもある」
階段の下から、ざわざわと人のざわめく声が聞こえる。
突き当たったところにあるドアを、先に行く男が開け、入るよう促す。その先へと足を進めて猫は息を呑んだ。
「地表で動き回ることのできない『ねずみ』の武器は膨大な人員と緻密なネットワークだ。」
先程居た半地下の三倍はあろうかという大きさの部屋には、ビリヤードやルーレット、本格的なバーがあり、大勢の老若男女が語り合っていた。
野良犬が更に足を進め、中央へと歩み出る。
彼らの視線が自分と野良犬に集中するのを感じながら、猫は額にじったりと汗が浮かんでくるのを感じた。
もしかして、こいつら全員『ねずみ』なのか…。
「そして…」
野良犬が歩みを進める先には、一際豪勢なソファ。
その上にまるで王者か何かのようにゆったりと、腰掛けている人間がいた。
「その多くの人員をたった一人で束ねているのが、『ねずみ』と呼ばれる人間だ」
華奢な体付きに、頬の辺りで切り揃えた髪。珍しいねずみ色の瞳を持ったその人間は野良犬を見付けると美しい顔をほころばせてにっこりと笑った。
「…ご機嫌、麗しゅう。『D』」
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