「第一話」
今日もまた潮騒で目を覚ましました。窓の外では月光がやさしく海原を照らしているのでしょう。
手首に食い込む麻縄の痛みも肌を撫でる生ぬるい潮風にももう慣れました。けれども今だ私は潮騒の歌声に怯え、毎晩目を覚ますのです。
波の音は囁きに似ています。あるいは息吹。あるいは鼓動。そんな取り返せないものばかりが、夜毎、私に語りかけるのです。
こんな時、私は潮騒を遠くに聞きながらぼんやりと考えるのです。
あの日、あの娘を連れて行かなかったのはこんな予感があったからなのだろうかと。いいえ、予感なんて確かなものはなかったかもしれません。それでもあの娘を置いていかなければ、もう帰ることはできないと思ったのは確かです。
あの娘こそ、枷。
あの娘だけが私を繋ぎとめる枷なのです――
「先生、これで荷物は全部でしょうか。」
包みを手に振り返ったオーキッドにカクテュスは頷いた。
「ええ、それで最後になります。中身はガラス器具なので丁重にお願いします。」
「分かりました。」
馬車に最後の荷物を積みに向かうオーキッドの後ろ姿を見送りながら、カクテュスはため息をついた。思わず右目の辺りに手をやって、苦笑し手をひっこめる。彼がいつも身につけている片眼鏡はちょっとしたことで今手元にはない。
黒い髪にフード付の黒いローブというカクテュスの出で立ちに、幾らか色彩を与えているのが彼の青い瞳である。その瞳も藍か黒かというほどで、よほど注意深く見るか、陽の下でなければ分からないくらいの濃い青である。
その深い青の瞳には疲労の他になんとも言い難いものがにじんでいる。苦悩。しかもそれは甘い苦悩である。それも霞のようにすぐ消えた。
カクテュスはその瞳をそっと眼下の風景へ向けた。
ショーナ地域北部。
北に研究所本部、南東に海軍本部と教団本部を、南西に陸軍基地を臨むこの地域は俗に<緊張の三角地帯>テンス・デルタと呼ばれている。カクテュスの家はそのちょうど中央部の小高い丘の上に位置する。
この国は昔から軍部、教団、研究所、の三つの異なる勢力が互いに支えあうことで成り立ってきた。いつ崩れてもおかしくないその均衡が保たれ、内戦へと発展せずに今日まで来たのは、一重に各勢力の権力者達の努力のたまものであった。
この三という数字は実に微妙な数字である。三勢力のいずれか一つが、権力を握れば残り二つの勢力を敵に回すこととなり、結果的に非常に不利な戦いを強いられることになる。逆もまたしかり。二つの勢力が手を結べば、残り一つの勢力は滅ぶより道はない。そのため、軍部、教団、研究所の三勢力はつかず離れずの微妙な関係を保ち続けていた。
さて、その三つの勢力―陸・海軍本部、教団本部、研究所本部にちょうど三角形に囲まれているのが、このショーナ地域である。
有事の際には真っ先に戦場と化すであろう地域に、わざわざ住む物好きはカクテュスくらいのもので。彼の家の他に人家はもちろん、店などあるはずはない。そのおかげで買い物は月に一度、5キロ先の町まで降りて済ませている。万事がその調子なので、自然と人との交流も少ない。
カクテュス自身は研究所へ属しているが、それも月に二、三度顔を出す程度、それ以外は限られた人間が家を訪れるのみである。
そんなほとんど隠者のような生活を送っていたカクテュスに、珍しく研究所から呼び出しがかかった。ノマシェ海岸の遺跡調査へ同行しろ、という。家から遺跡までは片道半日、調査自体は泊りがけで二日から三日かかる。
カクテュスは生来の出不精である。最近は家の立地の悪さを言い訳に、それがますますひどい。道程の長さと家を空けることを嫌がって、のらりくらりと研究所からの要請をかわしていたが、この間ついに所長のサイン入りの赤封筒を受け取って、しぶしぶ調査同行の書類にサインをした。
今日はいよいよその遺跡調査の当日である。
もうあらかたの荷物も積み終わり、あとは出発するばかりなのだが――
「あら、もう終わりみたいね」
女性の声にカクテュスが振り向くと、見慣れた顔がそこにあった。
「バーベナ」
「荷造りでも手伝おうかと思ってたんだけど…ちょっと遅かったわね」
バーベナは豊かな黒髪を高い位置で結い上げた、赤茶の瞳をした女性である。カクテュスと同じ研究所に勤務しており、二人は数年来の友人になる。今日も遺跡調査の話を聞いて手伝いに来てくれたらしい。
「さっきそこでオーキッドとすれ違ったわ。…それにしても、すごい荷物だわね。」
すでに馬車を見てきたらしいバーベナが、馬車のとめてある方をちらりと目で見て、言った。馬車にはすでに積載量限界ギリギリの荷物が積まれている。
「やっぱり調査となると荷物も多くなってしまいましてね。これでも必要最低限の荷物だけにしたんですけど。」
「ふうん……」
と気のない返事で頷くと、バーベナはしばらくカクテュスのローブをじろじろと見ていた。が、いきなり手を上げると、突然ばっとローブをまくりあげた。
「…で、これのどこが『必要最低限の荷物』ですって?」
バーベナがまくりあげたローブの下には、色とりどりの水溶液が試験管につめられて、ベルトで留められていた。その他にもビーカー、ピンセット、謎の錠剤、スポイトなど、どことなく胡散臭い品がぎっしりと、ローブの裏側に納まっている。よくまぁ、こんな面積の布地に、これだけの物品が収まるものだと思わず関心してしまうほどだ。
「いやぁ、どうも家を空けるとなると不安になっちゃいまして。アレも持っていこう、コレも持っていこう、とやっているうちにこんな有様に…。」
「に、したってコレは多すぎるでしょう…。なにもローブの下にこんなに持ち歩かなくても」
とローブの荷物を検分していたバーベナは怪しげな持ち物の中に、包装紙に包まれた四角い包みを見つけた。
「なにこれ。」
「ああ、菓子折りです。先方にお土産でも持っていこうと思って。」
「あら、気が回るじゃない。中身は?」
「屍まんじゅうですが」
「置いていきなさい。」
にこやかに包みを取り上げたカクテュスの手をバーベナは遠慮なく、はたき落とした。
「な、なにするんですかッ!?せっかくのおみやげを!!」
「いいから、黙っておいていきなさいっ!!教会からもぎ取った調査許可証が撤回されかねないわ!!」
…屍まんじゅうとは、一部でカルト的人気を誇る高級和菓子である。生地には紫芋が混ぜられふっくらとした舌触り、中には最高級小豆と砂糖を使用し小豆そのままの風味を生かした粒餡が入っている。しかし、屍まんじゅうがカルト的人気を誇っているのは、その味のためではない。むしろその特殊な外見のためである。
手のひらサイズのその球体には、苦悶に歪み、歯を食いしばった人間の顔が、芸術的ともいえる緻密な造詣でくっきりと刻まれている。額の部分には何故か「屍」の文字。しかも生地の色は紫芋そのままの、鮮やかなバイオレットである。「一部のカルト的」ファンを除いた多くの人々からは、嫌悪を通り越してもはや畏怖の対象とされていることはいうまでもない。
「まったく…あんなに嫌がってたくせに随分、乗り気じゃないの」
菓子折りを掴んで離さないカクテュスから、ようやく包みを取り上げると、バーベナは呆れたように言った。その言葉を聞いて、途端にカクテュスの顔が曇る。
「だって乗り気もなにも…同意書にサインしたからには行くしかないでしょう」
思い出したように、突然不満げな顔を見せるカクテュスに、バーベナはくすくすと笑った。そんな彼女を恨みがましく睨んで、カクテュスは言う。
「笑いごとじゃありませんよ、まったく…。卑怯だと思いません?赤封筒は最重要書類――加えて所長のサイン入りじゃ、私みたいなヒラ研究員には拒否権なし、ですよ」
「あのねぇ、赤封筒っていったら普通は災害時とか有事の時の連絡に使われるのがせいぜいなの。個人宛に出されることなんてほとんどないのよ?貴方くらいのものじゃない?所長から赤封筒貰うなんて」
「それはそうですけど――」
でも別に私じゃなくたって、とかなんとか口の中でぶつぶつ呟いているカクテュスを見ながら、バーベナはため息をついた。カクテュスが同行を渋ったせいで、発掘調査が先延ばしになったという噂を小耳に挟んだのだが、あながち嘘ではないかもしれない。
(それにしたって、なんでこの人はこんなに同行を嫌がるのかしら……)
なおもぶつぶつと文句を零すカクテュスの顔を、呆れたように見ていたバーベナは、ようやくそれに気が付いた。
「あら?あなたモノクルは?」
右目にかけたモノクルはカクテュスがいつも傍に置いて離さないものの一つだった。もともと右目の視力が弱い彼は、モノクルなしでは読書も辛い程なのだ。
「いや……これはその……」
「何よ?なくしたの?」
苦情を並べ立てていた先程までの元気はどこへやら。急に歯切れの悪くなったカクテュスの言葉にバーベナも不審な顔をした。
「エクルにとられたんですよ」
後ろから聞こえた軽やかな笑い声に振り向くと、鮮やかな金髪が風になびくさまが目に入った。
「あら、積み終わったの」
バーベナはオーキッドの姿を見つけると、穏やかに微笑んだ。オーキッドはそれに軽く会釈する。
金色の髪に翡翠の瞳をしたオーキッドは、今回カクテュスとともにスタッフとして調査に同行することになっている。
「それよりなによ、エクルにとられたって?昨日まで一緒に荷造り手伝ってたじゃない?」
興味深々といった感じで詰め寄るバーベナに、カクテュスは顔を曇らせた。
「いや、それがその…どうやら、自分も連れて行って貰えると思いこんでいたようで…。」
「あっらー、それはショックだわね。」
カクテュスもしぶしぶと頷いた。今はないモノクルに手をやりかけて、ごまかすように前髪を掻きあげる。
「で?モノクル取られちゃったの?」
「『先生のバカ!』という台詞付きで。」
「オーキッド君」
カクテュスにじろりと睨まれて、さすがにオーキッドも口を噤んだが、その顔には隠しきれない笑みが広がっていた。バーベナにもその一部始終が目に浮かぶようで、思わず口元が緩んでしまう。
「でも、アレがないとあなた困るんじゃない?」
「困るんですよねぇ…」
心底困った様子のカクテュスの背中を、バーベナは勢いよく叩いた。
「なら、さっさと取返してらっしゃい♪出発まではもう少しあるんだから。」
冒頭のシーンが書きたいがために書き始めました。
…しかし、世界観の説明と屍まんじゅうの説明だけで、終わってしまった第一話☆
屍まんじゅうは影の主役なので、今後も活躍予定です。
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